[幕末史研究]劍を取っては無敵の男

看板KShistoryACG作者 (多摩の歲さん)時間23年前 (2002/02/08 21:25), 編輯推噓0(000)
留言0則, 0人參與, 最新討論串1/1
強いと評判の齊藤一ですが、果たしてその實力がどれくらいのものであったのか は、當時の人々の話等から推測するより他に手はありません。 「誰々よりも強かったのですか?」という質問を頂く事があるのですが、實際の ところ、わかりません(おいっ!)。強さというのは必ずしも劍の腕だけでは無い ような氣がするのです。 もちろん、道場で竹刀を振るっても、凄腕であったろうとは想像がつきますが、 齊藤一は、もっと、こう何か計り知れない強さを持っていたのではと私は思うので す。 真劍での勝負における度胸や勘、對峙した相手を倒す殺傷能力、數多の戰で戰い 續ける体力と生き殘る生命力、そういったものを兼ね備えたある意味、恐ろしい男 であったような氣がします。 新選組には高名な流派の免許皆伝者が、何人もいましたが、齊藤一はそうではあ りませんでした。にもかかわらず入隊してすぐに藤堂(北辰一刀流目錄)、沖田( 天然理心流 免許皆伝)と並んで最年少幹部(沖田は二才年上の說もありますが) となり、後に三番隊を率い、劍術師範頭をも務めます。これは彼の實力を証明して いますし、それを近藤、土方も認めていたということです。 また、話として殘されている斬り合いは、齊藤一年表に揭載している大阪力士と の亂鬥、四條大橋の斬り合い、天滿屋事件、油小路の變などがありますが、なかで も油小路の變で服部武雄を倒したのは齋藤であるという、永倉が後年弟子に語った 逸話は(本當ならば)彼の強さを証明していると思います。 また、戊辰戰爭(齋藤が戰ったのは鳥羽伏見の戰いから、會津戰まで)でも、齋 藤(山口)は常に前線で戰って生き殘っていますし、西南戰爭でも(銃で擊たれ負 傷はしていますが)彼(この時は藤田)が死ぬ事はありませんでした。 新選組結成とほぼ同時に入隊し、西南戰爭まで戰ったのは齋藤だけです。このこ とから、一騎當千、百戰鍊磨のつわもの揃いの新選組においても、おそらく實戰に 身を投じた回數が最も多かったのは彼だったのではないかと推測されます。 まさにくぐった修羅場は數知れず。 にもかかわらず彼はついに戰場に倒れる事無く、疊の上で(爆)ほぼ天壽をまっ とうしてしまったのです。 齊藤一恐るべし。 實際に真劍で立ち會った人の話が殘っていれば、物凄くリアルなものだったでし ょうが、齋藤と立ち會って生きていた人などまずいないハズでしょうから身近な人 の話を載せてみました。 また、後半には彼が警官時代に行った劍術大會の記錄とそれに關する考察です。 「わし(永倉新八)が下晴眼に構え、齋藤が平晴眼で相對するところ、相手がな かなか攻こめまぬ為、一步出て跳ね上げようとしたところ、するりと躲され、 そ.の.一.瞬.突.き. を取られた。 又、ある時は小手を取りにいったところ、拔打ちに先に小手を取られた」などと 翁は齋藤の劍を無敵の劍なりと申しておりました。 (天滿屋で)當時居合の名手といわれた中井庄五郎が、三浦の前で片手をつき、 挨拶の樣なしぐさよりいきなり片手拔打に來た為、三浦は後方に大きくのけぞった ところ、齋藤が一瞬左突きにあった大刀拔打に一刀で相手を倒す手練の技であった との事です。 永倉、齋藤兩氏の真劍斬擊談として刀の鯉口(鞘の口)を切った時より、一瞬で も恐怖を感じた時は死であると云っておられたと申しておりました。 以上すべて『幕末史研究第三十號』より 瀧上鐵生氏談 -- 男の一生というものは美しさを作り上げていくものだ、自分の。そう信じている。
文章代碼(AID): #yOz7900 (KShistoryACG)
文章代碼(AID): #yOz7900 (KShistoryACG)